小此木先生の話
人生の中でのキーマン。2人目。
それは小此木先生です。
高校一年時の化学の先生でした。
私の通う高校はマンモス校で、一学年25クラス、1000人以上いました。
小此木先生はまだ30過ぎの比較的若い先生でしたが私たちの学年主任をしていました。
私はちょうど教壇前の真ん中一番前の席で、何だかいつも緊張しながら受けていました。
ある日の化学の授業で、パッと後ろを振り向くと殆ど生徒は午後のうららかな時間だったのか寝ていて、一番前で真剣に授業聞いていた自分が恥ずかしくなる瞬間がありました。
でも逆に小此木先生は一番前の私だけ聞いていたのを知っていたはずなのに、目線も合わせず皆んなに聞かせるように淡々と授業をそれまで進めていて、この人何考えてんだろうと疑問を持った瞬間がありました。
同じように皆んな寝ていたある日の授業中、先生はみんなに問いを出しました。
名指しされた生徒は寝ぼけ眼で適当な答えを言いました。それに対してクラスからはクスクス笑い声が聞こえました。
しかし、その時小此木先生はいかにも感心したように「それは本当に素晴らしい答えだ」と満面の笑顔を見せ「なぜならば、、」と全然お門違いの答えを正しい答えに結びつけていく連想をしました。
その時、あぁ!!この人は本当に凄い人なのかもしれない!!誰も卑下して扱わない!と私の中で何かが響きました。。
それからどんな人なんだろうと、関心を持つようになりました。
栃木訛りがたまに出ると、クラスからはクスクスと嘲笑され、しかし先生はクラスが笑顔になった事に対し増して笑顔を見せる。皆んなが先生分かってないのに自分で笑ってるよと、大笑いするとまた特徴のある笑い方で笑う。そしてまたみんなが爆笑する。
意味の分からない連鎖がたまに続いて、あぁでもこの先生は分かってない訳じゃないんだ、自分が笑われてもみんなが笑顔なのがとても幸せなんだ、本当に心が豊かな人なんだ、と思う瞬間がありました。
マンモス校の学年主任の先生は多忙で、残念ながら一年時の化学以外は接点がありませんでした。
それどころか、授業以外では他の先生たちと仕事の顔やあるいは悪いことをした生徒の対応にいつも追われている噂などで、あの笑顔の印象はあまり見受けられませんでした。
そんなある日の全校朝礼で小此木先生が話をする場面がありました。
「私の胸のポケットにはいつも入っている詩があります」と胸から取り出してその詩を読んでくれました。
それが、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」でした。
小此木先生が理解できるヒントかもしれないと、それから一心不乱に賢治の本を読みました。いつの間にか、私は小此木先生よりも賢治の世界に深くハマるようになりました。
しかし、賢治の世界そのものが今の私の土台になりました。
どこか小此木先生にも認められたかったのか勉強も一生懸命しました。
卒業式の時に壇上中央に立った小此木先生。
特待生発表の中で私の名前が呼ばれました。
壇上の先生は遠くて、その時も授業中とは違い仕事中の何一つ変わらぬ表情でした。
でもそれだけが唯一、私の中で頑張った甲斐を認めてもらえたのかもしれない瞬間でした。
卒業式に配られた校内便り、卒業生への言葉で先生の信念は「思いやり」である事をその時知りました。
それまでの色々な事が合点した瞬間でした。
今ではもう定年を過ぎてしまったかもしれません。私の事は記憶にないでしょう。
それでも、小此木先生から学んだ事は私の中で今でも生き続けています。
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